坂上田村麻呂(2)

坂上田村麻呂年表
西暦 年号 事項
758年 天平宝字2年 坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂の次男(一説では3男)として生まれる。
764年 天平宝字8年 父・中衛中将従4位下坂上大忌寸苅田麻呂、甲斐守を兼。
祖父・大和守正4位上忌寸犬養(いぬかい)卒す。
768年 神護景雲2年 父・苅田麻呂従4位上となる。
770年  宝亀元年 父・苅田麻呂陸奥鎮守将軍となる。
771年 宝亀2年 父・苅田麻呂中衛中将兼安芸守となる。
780年 宝亀11年 坂上田村麻呂23歳、近衛府の将監(しょうげん)に任官。
781年 天応元年 父・苅田麻呂正4位上右衛士督兼丹波守となる。
782年 延暦元年 父・苅田麻呂氷上川継の謀反事件に連座し、右衛士督の役職を解任。
784年 延暦3年 父・苅田麻呂造長岡宮使に任命され、長岡京遷都に関与す。
785年 延暦4年 父・苅田麻呂従3位となり右衛士督下総守に左京太夫を兼。
10月、下総守が越前守に変わり、 坂上田村麻呂従5位下となる。
786年 延暦5年 父・苅田麻呂死去。享年59歳。
789年 延暦8年 征東大将軍紀古佐美は奥州征討に出発。
蝦夷の首領阿弖流為との巣伏村での戦いで官軍大敗する。
791年 延暦10年 1月、坂上田村麻呂、百済王俊哲と共に東海道諸国に蝦夷征討
準備の為派遣される。
7月、征討軍が派遣される、其の数およそ10万(日本後記)。

征夷大使:大伴弟麻呂、 副使:百済王俊哲、副使:多治比浜成
副使:従5位下坂上田村麻呂、副使:巨勢野足。
794年 延暦13年 1月、征夷大将軍大伴弟麿に節刀を賜う。
6月13日、副将軍坂上大宿禰田村麿己下蝦夷を征す(日本記略)。
坂上田村麻呂の指揮の下、蝦夷(エミシ)部隊を殲滅す。
795年 延暦14年 1月、大伴弟麻呂、節刀を返上。
2月、征夷の功績で坂上田村麻呂は従4位下に特進。
木工頭(こだくみのかみ)に任じらる。
796年 延暦15年 1月、坂上田村麻呂陸奥出羽按察使・陸奥守に任じられる。
10月、坂上田村麻呂鎮守将軍も兼務。
797年 延暦16年

11月、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられる。

798年 延暦17年 これ以降数年間、奥州の俘囚を全国各地に移される。
801年 延暦20年 第3次の征夷始まる。
2月、坂上田村麻呂は節刀を賜っております。 
(このときは軍勢4万で攻撃)。
9月27日、征夷大将軍田村麿等が夷賊を討伏の報告(日本記略)。
「遠く閉伊村を極めて」とあり 胆澤・紫波地方の攻略。
10月、従三位。
802年 延暦22年 1月、坂上田村麻呂は陸奥國胆澤城使に任じられ胆沢城の造営を開始。
4月、 蝦夷(えみし)の首領大墓公阿弖利為(アテルイ)
盤具公母礼(モレ)等500余人を引き連れて降伏する。
田村麻呂は蝦夷の首領大墓公阿弖利為・盤具公母礼を捕虜として帰京す。
その後命乞いしたにもかかわらず公卿たちは二人の蝦夷の捕虜を
「野性獣心、反覆定まりなし」として河内国の杜山にて斬首の刑に処す。

803年 延暦22年 3月、造志波(しわ)城使に任じられ
胆澤城よりも北に
志波城を造営
(志波城は北上盆地のほぼ北に位置)
804年 延暦23年 第4次の征夷作戦が計画され攻略目標は津軽地方
坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任命される。
坂東・陸奥7カ国に動員令がだされ
兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。
征夷大将軍従3位行近衛中将兼造西寺長官 陸奥出羽按察使陸奥守。  
弓弭で石の面に日本の中央と書きつけたという
有名な「坪の石文」はこの頃か。? 
805年 延暦24年 坂上田村麻呂は参議に任じられる。 
12月、有名な「天下の徳政」論議がおこなわれ藤原緒嗣の建議により
第4次征夷作戦中止。
806年 延暦25年
(大同元年)
坂上田村麻呂、中納言・中衛大将に任じられる。
807年 大同2年

4月、中衛府改め右近衛府となってその右近衛大将に。
8月には侍従に、11月に兵部郷に任じられる(坂上田村麻呂50才)。

808年 大同3年 坂上田村麻呂4月正3位に叙せられる。
810年 弘仁元年
(大同5年)
坂上田村麻呂は9月大納言に任じられる。
藤原薬子の変で、坂上田村麻呂は鎮圧軍の指揮をとる。
811年 弘仁2年 1月坂上田村麻呂は渤海國の使者を接待。
坂上田村麻呂、平安京郊外粟田別業で死去(5月27日)享年54才。