夷狄の末裔を以って任じる秋田氏の矜持 23

日本の近代がスタートしたばかりの明治十七年七月、巨大な封建権力を新政府に奪われた

旧大名達の懐柔策として明治新政府は華族令を制定した。

かれらに公・候・伯・子・男の五段階の爵位を授与したのである。

(旧三春藩主秋田映季は子爵を授けられ貴族院議員に列した)。

具体的な手続にとりかかった宮内省は、旧大名達にそれぞれの系図の提出をもとめた。

各大名達の系図はその先祖を天皇家から分かれた形の源平藤橘の諸姓につないでいた。

この時、三春藩主・秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図が宮内省を困らせた。

分の家の先祖の出自を中央の貴姓に結びつけるのが常套であるが

秋田氏はみずから先住民の後裔をもって任じた。


同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。

長髄彦は、『日本書紀』によれば神武天皇の東征のさい、最初の上陸地

河内の日下(くさか)で頑強に抵抗した土着の豪族である。

長髄彦は、日本史上初めて皇室への抵抗者、つまりは逆族・朝敵である。

いやしくも皇族の藩屏たる華族の先祖が逆賊・朝敵長髄彦の兄の子孫では困る。

宮内省は、その朝敵を先祖と仰いで恥じない、秋田氏の系図の取り扱いに苦慮した。

ところが別の安藤系図では、遠祖は人皇第八代の孝元天皇にはじまり

そのあとは四道将軍の一人・大彦命に続いている。これは無難である。

宮内省は、この系図の提出を求めた。しかし、この申し出を秋田家は受け入れない。

同家の主張はこうであった。

「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家ということをもって

家門の誇りといたしております。

天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのは

はばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」

こう答えて自家系図の改訂を断った。

これは大正期の歴史学者で蝦夷研究学者でもあった喜田貞吉が伝える話である。

(昭和三年八月十五日大阪朝日新聞)。

喜田貞吉は秋田家の態度をほめたたえている。


・・・神武天皇東征以前より本土に豪族たりとの家伝を固執し

長髄彦の兄・安日の後なることを公称せらるるは

わが
史上まれに見るの尊敬すべき態度なりとす」。

逆賊の兄安日王を誇りとする秋田系図は、実季が伊勢の朝熊に流され


八十四歳で死ぬまでの三十年間ひたすら秋田系図の編纂に執念を燃やし

死の前年、孫の盛季に与えた苦心の一巻である。

天皇家よりも古いと自負する秋田系図は

ただひとつ安日王を遠祖とする伝承に支えられているからであった。



参考文献
秋田安東氏物語 川原衛門 加賀谷書店
秋田「安東氏」研究ノート 渋谷鉄五郎  無明舎出版
郷土史の窓・能代湊・檜山周辺史話 長岡幸作 北羽新報社
白鳥伝説 谷川健一  集英社
津軽・秋田安東一族 七宮A三 新人物往来社