阿倍比羅夫の北征

能代市は、人口約55,000人を擁し、秋田市、大館市についで、県内第3位の人口を擁し

古い歴史を持つ地である。現在の能代の地名を古い文献の中から探し出してみると

「斉明天皇4年(658年)4月、越国守阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷を伐つ、齶田(飽田)・渟代

二郡の蝦夷望み恐じて降わんと乞う」と日本書紀に始めて記されている。

渟代(ヌシロ)の名称は、地名ではなく郡名であり、現在の米代川下流地帯即ち能代・山本地方を

指していると思われる。


渟代(ヌシロ)とはアイヌ語の「台地上の草原地」という「ヌップシル」からの転語で

「ぬしろ」となり漢字の渟代をあてた地名だそうです。

元禄7年(1694年)及ぴ宝永元年(1704年)に大震災にあい、それまでの地名「野代」は「野に代る

と読まれ縁起が悪いということで、『よく かわる』の 能代(のしろ) と改められた。


西暦 年号 事項
658 斉明  4 4月、阿倍比羅夫が180艘の船団を率いて、蝦夷、粛慎を討つ。
659 5 3月、阿倍比羅夫が津軽、秋田などの蝦夷を討ち、後方羊蹄(しりへし)に政所を置く。
660 6 3月、阿倍比羅夫が粛慎を討つ。
663 天智  2 8月、日本・百済軍が白村江で唐・新羅の連合軍と戦って敗れ、百済は滅びる。
668 天智  7 高句麗が唐・新羅の軍と戦って敗れ、滅びる。

阿倍比羅夫の祖先は、孝元天皇(8代)の皇子大彦命、十四代目の子孫が

阿倍比羅夫と『姓氏家系大辞典』にあり、水軍の将。


663年白村江の戦いに出陣し、後九州防衛の大宰府師に任命される。

能代のねぶながし行事「役七夕」は1300年前/阿倍比羅夫が、蝦夷征伐の際

川に灯(あかり)を流し、おびき出して平定したという伝説を起源としています。 






7世紀の中葉、朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いでは新潟まで達しており

大化3年(647年)12月、渟足柵(ぬたりのき)を作り柵戸を置き

翌年の大化4年には
盤舟柵(いわふねのき)をつくって大和国家に服属しない

先住民族の蝦夷を征伐する拠点とした。

それからの北は蝦夷との辺境地帯で蝦夷の討伐と懐柔を強行した。

「斉明天皇4年(658年)4月、越国・国守で阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷を伐つ」と

日本書紀に書かれている。


阿倍氏は河内の生駒山脈のふもとから摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており

邪馬台国が東遷して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と物部氏に代表される

倭種とが婚を通じて形成された氏族とおもわれる。

その姓は恐らくアイヌ語の火を意味する
アベまたはアピに由来するものであるらしい。

古代の越の国は越前、越中、越後だけでなく東北地方の日本海側も含む広大な地域の総称であった。

斉明帝4年(658)4月、越(こし)国(いまの北陸地方で越前・越後と別れる前の呼称)の

国守阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて磐舟柵より日本海岸を北上し

蝦夷(えみし)征伐に進発しました。
蝦夷は平和を愛する民族であった。


遠征先は狩猟や漁業や農業の行われていた豊かな蝦夷地・雄物川河口の齶田(飽田・あぎた・秋田市)と

米代川河口の
渟代(ぬしろ・田県能代市)地域でした。

阿倍比羅夫の北征の目的はあくまで、蝦夷地を大和朝廷の支配領域に入れようとするもので

この齶田(飽田)・渟代の蝦夷はその大軍を見て怖れを為して


蝦夷の首長の恩荷(オガ)は、阿倍比羅夫に降伏し、その際恩荷(オガ)は『齶田浦神』に誓った。

「自分たちは弓矢をもっているが、日常肉食しているので、けものをとるためのものである。

もし官軍に抵抗し弓矢を使用するためもっているのであれば、そのことはすべて齶田浦の神が

お見通しになっているであろう。この神にかけて
、朝廷に仕えまつる」と帰順した。

この在地の神は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在した古四王神社であったらしいそうで

古四王は、高志王・越王に通じるという。

阿倍比羅夫はこの恩荷に小乙上という官位を与え、
ヌシロ(能代)・ツガル(津軽)の2郡の郡領に

任命しております。

その3ケ月後斉明帝4年7月、200人あまりの蝦夷が朝廷に出むいて貢物をささげています。

これを賞して、能代と津軽の蝦夷にそれぞれ位階をさずけ、旗、鼓、弓矢、鎧などを与えたと

日本書紀は記している。

阿倍比羅夫は更に北上して
有間浜(岩木川河口)に津軽や胆振金/且(いぶりさえ)の蝦夷達を

集めて饗応をしております。

また有間浜に、渡嶋(わたりしま)の蝦夷等を集めて饗応しております。

有間浜については諸説があるが津軽半島の十三湊に比定する説がもっとも有力である。

「渡嶋」は北海道の南部を指すと思われます。


その後に、阿倍比羅夫の水軍は肉入籠(ししりこ)に到達。

その時、問莵(トイウ)の蝦夷の胆鹿嶋(イカシマ)と莵穂名(ウホナ)の二人がやってきて

後方羊蹄(しりへし)に政庁を置くことをすすめております。


明帝5年3月にも阿倍比羅夫は遠征に出発したことになっております。

経過は斉明天皇4年4月の遠征のときとほぼ同じです。


斉明帝6年(660年)3月、阿倍比羅夫は第二次遠征に200艘の舟師を引きいて

粛慎国を討伐するため進発しております。

粛慎は中国の北方の沿海州付近(高句麗の北)に住んでいる民族であるといわれております。

「大河の測(ほとり)に到る」

「渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。」と出ており


大河のほとりまでくると、そこには渡島(ワタリシマ)の蝦夷が1000人ほど海辺に集まっておりました。

その中の二人の蝦夷がにわかに叫んで「粛慎(ミシハセ)の軍隊が船にのって大勢やってきて

私達を殺そうとしている」ので助けて欲しいと阿倍比羅夫に言った。


阿倍比羅夫は色で染めた
絹や兵器や鉄などを海辺に積んで置いた。

羽を木にたかくかかげて旗とした粛慎の軍が舟をつらねてやってきた。

一艘の舟から二人の長老格の老人がやってきて、布をもっていったが、またそれをもどしにきた。

阿倍比羅夫はかれらを招いたが、応じないで、粛慎は弊賂弁の嶋(へろべのしま)に

帰って「柵」に立てこもり、
そして、阿倍比羅夫軍と粛慎軍は戦争になった

その時、粛慎の内49名を捕虜としましたが、倍軍の能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が

殺されたとある。


粛慎の軍とは交戦しているが、渡島の蝦夷とは一度も戦わず饗応しているだけです。

その遠征の目的は交易ルートの開拓にあったのではないかと思われます。


朝廷は、天智即位前紀七年(662)8月に安曇野比羅夫を前軍とし、阿倍引田臣比羅夫を

後軍として
水軍を編成し、百済の救援に向かわせた。

日本の存亡にもかかわる戦乱におもむいた、安曇野比羅夫と阿倍引田臣比羅夫の水軍は

日本の古代水軍の代表格であった。

半島での戦いで、唐・新羅連合軍の水軍に日本水軍が敗れ、400艘が焼かれております。

残った日本水軍が周留(チル)城の囲みを解こうと攻撃を仕掛け
惨敗し

日本の水軍は壊滅状態になった。

この白村江の戦いで敗れた、大和朝廷は本格的に国内の経営にかかわり

柵戸を作って徐々に北進を開始し

阿倍比羅夫のきずいた拠点は奈良朝に入ってもつづき

朝廷は蝦夷征討の軍を次から次とくりだしております。

阿倍比羅夫は、斉明帝時の蝦夷征討の将軍として、また奈良朝の坂上田村麻呂将軍と共に

能代市では現代まで
その名を伝承されております。