雑記


風の松原
鳩の思い出
庭の樹木と草花
キノコ採り


風の松原

 能代市は秋田県の西北部に位置し、米代川河口に古くから開けた木材都市である。河口から日本海の海岸に沿って南下する広大な砂防林がある。面積は760haでその規模は日本一を誇る。江戸時代中期に植林されたものである。現在は「風の松原」の名称で市民に親しまれている。能代砂防林が日本の四つの百選に選ばれたのを機会に、市民からの公募によって決定した愛称であり、日本五大松原のひとつに数えられている。
 風の松原の黒松は、日本海から吹きつける潮風や飛砂と対決するかのように一本一本が海を背にして大地に緻密な根を張り、互いに手を取り合うように同じ方向を向き、幹や枝に深い年輪を刻んでいる。黒松の林が厳しい自然と戦いながら市民を守り続けている姿は壮観である。私も初めて能代を訪れる友人は必ず風の松原を案内することにしている。例外なくその雄大さに感激してくれるからである。
 風の松原は砂防林としての本来の役割以外に、多くの憩いを市民に提供してくれる。松原の一角は散策路やグリーン広場として整備され、老若男女のハイキングコースとして、市民マラソン大会のコースとして、犬の散歩道として、この上ない自然との一体感を与えてくれる。また、毎年秋になると風の松原はひときわ賑わいをみせる。キノコ狩りのシーズンが訪れるからである。黒松の根元でひっそりと生育する幾種類ものキノコは、あたかも黒松に保護され、慈しまれているようである。潮風と対決する雄大な黒松の優しい一面を見ているような気がする。森林浴を楽しみながらキノコ狩りに興じ、行きかう人々が朝の挨拶を交わす光景は都会では見られない、ほのぼのとした人間の暖かみを感じさせる。
 幼少の頃から親しんできた風の松原は能代市の誇りである。そこに生育する黒松やキノコ類や色々な植物は大切に育んでいかなければならない。
 今年もまた厳しい冬がやって来る。
 論理の飛躍であろうか、我々小病院を取り巻く昨今の環境は冬の日本海から吹き荒れる冷たい烈風のようである。いっこうに衰えを見せない。ひたすら耐え忍んで行かなければならないのであろうか。風の松原の黒松のようにしっかりと大地に根をおろし、一本一本が連帯することによって解決を模作する方法があるような気がしてならない。

参照(”能代市のホームページ”に写真が掲載されています)


鳩の思い出

 中学生の頃、伝書鳩の飼育がはやった。おそらく全国的な流行だったのかもしれない。学校に行くと級友たちの間では毎日鳩の話で持ちきりであった。鳩がいないと肩身が狭いほどであった。何でもしてみたくなる気持ちはその頃からあったのかも知れないが、当時は新聞配達や牛乳配達のアルバイトをしていたから僅かながらお小遣いはあった。だから私も鳩を飼った。レースに出場するような血統書付きの鳩というわけにはいかなかったが、一応出生のはっきりしている証明書付きの鳩、つまり足に生年月日が記されたリングの装着されている鳩を二羽、雄と雌の番(ツガイ)で級友から安く購入した。鳩小屋は寄せ集めの木で自宅の鶏小屋の上に小さいのを作った。父も手伝ってくれた。当時は市内のゴミ捨て場的なところに木の切れ端がたくさん捨てられていたから贅沢を言わなければ材料はあった。置いてあった木もあったかも知れないから今から考えると冷汗ものである。
 鳩小屋の中にスペースを区切って、中に雄と雌の二羽だけ入れて見合いさせるとやがて雄が発情して交尾する。交尾のあとは小屋の中の一角に巣皿を置いてやる。二羽の鳩はその中に羽毛を集めてきて敷き詰める。何日かして雌が卵を2個生む。鳩は雄と雌が昼夜交代で卵を抱き暖める。3週間近くで孵化し、雛が生まれる。雛は生まれた直後でも排泄の時は巣皿を後じさりして外に出す。だから巣皿の中は汚れない。鳩小屋の下の鶏小屋の中に鶏が数羽いたが、彼らはどこででも排泄する。だから鳩の行為は不思議でもあり、感心もした。餌は親鳩が口移しで与えるが、これも雄と雌の両方が交代で行う。生後数日目に先に記したリングを足に付けてやる。雛は次第によちよち歩きを始め、羽毛が密生して、1ヶ月ほどすると自分で餌を食べ、飛べるようになる。親鳩はまた交尾して次の卵を産む。一夫一妻であった。次の卵を抱き始めると前の子どもには見向きもしない。それどころか、子鳩はまだ成長し切っていないうちは餌を求めて親鳩に寄っていくが、嘴でつつかれてしまう。この点が人間とは違っていた。
 学校の宿題もしないで友達から鳩の本を借りては読んでいたから母にはずいぶん叱られた。その母も私があまりに熱心なのに感心したのか、勉強しろと言っても無駄だと諦めたのか、私がいないときは代わりに餌をやってくれた。鳩が繁殖して小屋を拡張したときは当時勤めていた木材工場から材料を安く分けてもらってきてくれたりもした。
 飼っている鳩は朝晩の二回、運動のために小屋から出して飛ばしてやる。同じ小屋の鳩は一緒になって整然と空を旋回する。餌を与えるごとに笛の音を聞かせるようにしていたから、笛を吹くと旋回をやめて戻ってくる。鳩には帰巣本能があるからそれが飼っていてもっとも楽しかった。自分の小屋に居着くと遠くに連れて行って放しても真っ直ぐ帰ってくる。当時は中学生だったから競技大会に出すことなど考えたこともなかったし、出来ることでもなかった。自分の行ける範囲まで連れて行くしかなかった。父が仕事の関係で八森町方面までよく行っていたから、初めは鳩を連れて父の後について一緒に行った。車などなかったからもちろん自転車である。その後は一人で、北は八森町付近、南は八竜町付近まで鳩を何羽か籠に入れて連れて行った。そこで空に放し、一生懸命自転車を漕いで家に帰ってみると、もう鳩は小屋に入っていた。自分の飼っている鳩にもっとも愛着を覚える瞬間であった。帰って来れない鳩もいたが、そういう鳩はたいがい小屋に迷い込んで来てやむを得ず飼っていた鳩なので惜しくはなかった。
 ある日、級友の家に鳩を見ながら遊びに行ったら、親鳩が病気か事故かでいなくなった雛を自分で育てていた。感心すると同時に自分も同じことをしてみたくなった。親から雛を取り上げるのは気が引けたが、卵が一個しか孵らなかった番(ツガイ)がいたのがきっかけだった。生まれて一週間ぐらいの、まだ産毛しか生えていない小さな雛であった。家の中に小さい籠を置いて中に藁を敷き、そこに入れた。餌は当時の鳩の常食だったトウモロコシや菜種の実などを混ぜて自分の口に含んで噛み砕き、口移しで食べさせた。毎日続けた。だからその雛は私になついた。私が籠に近づくと餌を欲して泣いた。その雛にアルノーという名前を付けた。当時読んだ何かの本に出てきたフランスあたりの主人公が自分の鳩に付けた名前でも取ったのだろう。大きくなったら雌だと分かった。灰色の羽毛が生えた。父鳩は”灰ゴマ”で母鳩は”灰”だった。一ヶ月を過ぎて十分に成長した頃から鳩小屋に入れた。小屋を開けると出てきて私の回りを飛び、私の肩に留まる。その鳩だけは皆と一緒に空を旋回した後も鳩小屋に入らず私のいるところに降りてきて肩に留まり、手に留まって与えられた餌をついばんだ。たまらなく愛しかった。初めて遠くに連れて行って放す時は勇気が要ったが、自転車で連れて行ける範囲であればどこからでも帰ってきた。自慢の鳩であった。
 それから一年余り経った高校一年の終わり頃、自宅が火災で全焼した。隣家からの貰い火だった。早朝だったので逃げるのに精一杯で、家財道具は一切持ち出せなかった。だから鳩を小屋から解放する暇はなかったし、火の回りが早くて出来なかった。三軒焼けて消火作業が終了した。鶏は皆焼け死んでいた。十羽近くいた鳩は火災から逃れて皆どこかへ行ってしまったが、アルノーだけは近所の家の屋根の上を歩きながら焼け落ちた小屋の付近を見ていた。途方に暮れているようだった。周囲の様子が全く変わったのを察して不審に思ったのか私が口笛で呼んでも飛んで来なかった。来られても与える餌もないし、小屋も焼失したから不憫だった。私たち家族の住む場所さえ探さなければならない状況だった。火災現場の後片づけをしながら2,3日は見かけたが、その後どこかへいなくなってしまった。探しに行く余裕もなかった。火事さえなければ何年も一緒に過ごせたかも知れないと思うと無性に悲しかった。
 私の子どもたちが小中学生の頃は鳩の飼育は流行しなかったようだし、私も勤務医で官舎住まいであったからもう一度鳩を飼ってみようと考えることもなかった。今の私には孫がひとりいる。どういう運命の巡り合わせか、養女として育てる立場になっている。二歳七ヶ月である。機会があって一緒に上京し、上野公園に連れて行ったらたくさんの鳩が飛び交い、撒かれた餌をついばんでいた。鳩は次々と舞い上がって孫の帽子や肩に留まるから、戸惑いながらも孫は喜んでいた。昔夢中になって鳩を飼っていた頃を思い出した。その後、孫は鳥を見ると喜ぶようになった。今は自宅に少しばかりの庭があるから、その一角に鳩小屋を作ろうと思えばスペースは確保できる。僅かなお小遣いをやりくりしていた中学生の頃よりは立派な鳩舎が出来るであろう。だが、どうしてもアルノーの可哀想な記憶が鮮明に蘇ってしまう。孫がもう少し大きくなって色々なことを理解できるようになれば、その時は昔のことを教えながら気持ちを分かち合い、今度は孫と一緒にもう一度鳩の世話をする気持ちになれるのかも知れない。


庭の樹木と草花

 3年前に自宅に庭と呼べる程度のスペースが出来た。隣地を分けていただいたのであるが広くなったのは幸せなことだと思う。家は築後20年のぼろ家であるが、せっかく庭ができたのだから草花でも植えてみようかという気持ちになった。ところが自分には皆目知識がないことに気が付いた。植物に対する興味がなかったのである。園芸店に行ってたまたま目に付いたのが日日草であった(写真)。NITI 初夏から秋にかけて清楚な花を咲かせる一年草である。この花が一年草であることさえ知らなかったが、気に入ったので3年前から春になると毎年植えた。最初の年は皆成長して一斉に花が咲いた。観賞用の花として人気があるというがなるほどと思った。ところが2年目は発育が遅くなり一部は花が咲かなくなった。3年目の今年は半分以上が発育せず、苗の状態のまま枯れてしまったものもあった。水は毎日朝晩きちんとかけていたから不思議であったが、肥料をやらなかったからこれが問題だったのだろう。きちんと土を耕して花に栄養を与えればいいらしいと分かったが、もはや手遅れであった。勉強不足がもたらした結果である。花には申し訳ないことをした。だからまだ私は園芸が趣味ですとはとても言えない。
 昨年家内が日日草とは別のところに芝桜を植えたら同じ場所で今年もきれいに咲いた。開花期間が短いという点で寂しかったが、気に入ったので今年もあちこちに植えることにした。これが宿根草だということは初めて知った。宿根草の意味も分からなかったから調べたら、植物の種類や生育する地域によって多種多様ではあるが多年草とほぼ同義語だとあった。中学や高校で習ったかも知れないがすっかり忘れている。どうして越冬できるのか植物学的なことは全然分からないが、これなら一度植えれば毎年咲くから楽である。そこで今年は園芸店に行って何かいい宿根草はないかと主人に尋ねたらフロックスを勧められた。FX1 FX2耐寒性で開花期間は長く、性質強健、管理は容易といいことずくめであった。植えてみるとすぐに大きくなったし、色とりどりのきれいな花である(写真)。ただ土の手入れはあまり真面目にやっていないから来年も本当に咲くのかと心配になる。
 何種類かの樹木も植えた。カツラ、ナツハゼ、サルスベリ、イヌツゲなどである。木は好きであるがなかなか成長しないのが玉に瑕である。数年単位で見ていかなければならない。私には何事によらず結果を早く見たいという性分があるから気の遠くなる話である。といって大きくなったものを買ってきてもあまり愛着がわかない。成長の遅い木を小さいうちから植えることには初めは抵抗があった。単に庭を賑わすためだけの目的ならいいが、生育を楽しみにすると、この木が大きくなる頃には自分はもうこの世にいないのだろうと考えて空しくなったからである。だから以前は、盆栽、特に松の木などの盆栽を趣味にしている人たちの気が知れなかった。いつ成長するか分からない植物を丹念に手入れする気持ちが理解できなかったのである。しかしながら、そういう人たちは盆栽や盆栽鉢を日本古来の芸術として美の感覚を大事にしているのであろうと最近ようやく分かった。
 どんな種類の草花でも植えて大事に育てればとにかく花を咲かせてくれる。庭の樹木はいずれもまだ小さいが春には新緑が心を和ませてくれる。成長は遅くても子や孫の世代には大きくなっているであろう。草花や樹木についての詳しいことは何も知らなくてもいい、四季折々のそれぞれ美しさを毎年鑑賞していきたいという気持ちが私にも最近芽生えてきた。人間の感覚は歳とともに変わっていくのだろうか。


キノコ採り

 能代市の「風の松原」は砂防林としての本来の役割のほかに、散歩、ジョギング、サイクリング、お花見等、市民にとって種々の面で憩いの場になっている。それぞれの目的に合わせて整備もきちんとされている。私にとっての大きな楽しみは秋のキノコ採りである。色々な種類の食用キノコが棲息しているらしいが、代表的なものはイクチ(アミタケ)、ハツタケ、キンダケ(シモコシ)であろう。いわゆるキノコ類の植物学的な発育の法則や棲息分布などについては全く知識がないが、風の松原ではイクチとハツタケは早い年で9月中旬から出始める。キンダケは10月上旬から中旬頃である。そして比較的新鮮な状態での生育期間はイクチが1週間、ハツタケが2-3週間、キンダケが4週間ほどであろうか。
IKUCHI  どのキノコも大変においしい。何よりもこの地域でしか味わえないという点で貴重である。正式にはそれぞれに伝統的な食べ方があるのかもしれないが、イクチは醤油で煮込んで温かいご飯にかけて食べればほかのオカズがいらない。ハツタケはおつゆに入れればおいしいダシが出る。鍋料理にも使えるし焼いてもおいしい。キンダケは周知のごとく秋田名物の”きりたんぽ鍋”に絶対欠かせない秋の味覚である。
HATUTAKE  私自身はキンダケ採りがもっとも楽しい。キノコに重量感があるし、松葉や落葉や砂に埋もれて発育している姿も立派である。発見した1個が数十個の群生の中の1個であることもある。群生するキンダケを発見した瞬間のトキメキは例えようもない。釣りに例えれば大物がかかって竿が引き込まれた瞬間であろうか。10月上旬になるとウオーキングを兼ねて毎朝松原に出かける。偵察である。前述したように最盛期はそれほど長くはない。2-3週間である。時期になったという噂はたちまち町中に広まるから、すぐに松原は毎日キノコ採りの人々で埋まるようになる。その前に発見したいのである。最近はキノコの数よりも人の数の方が多いとさえ言われている。だからあまり採れなくなった。私は毎朝出勤前の1時間ほどしか行けない。雨が降った翌日などに、多くて数百グラム、それが1シーズンで数回というところであろうか。小学生の頃は採れたキノコを当時能代駅前にたくさんあった路上市場に持っていってお小遣いを稼いだ記憶もあるが、今は食べる楽しみよりも採る楽しみであるから収穫のほとんどは知人にお裾分けである。
KINDAKE  たくさん採れたときにキンダケの根の部分を集めて家の庭にある松の木の周りに撒いたことも何度かあるが、翌年発育した試しはない。ナメコやシイタケのように養殖の方法を研究している方もおられるのであろうが、キンダケに関してそれが成功したという話はまだ聞いていない。
 キノコ採りは趣味として安上がりである。実益も兼ねている。朝の新鮮な空気を吸いながら歩くのだから健康にもいい。風の松原は広い。まだ誰も知らないキノコの群生場所が見つかるかも知れないし、新しい種類のキノコが発見できるかも知れない。私にも体力的に無理になる時期がいずれやってくるであろうが、それまでは続けたいと思っている。


 今年もまた桜の季節がやってきた。暖冬を反映してか全国的に例年より早いらしい。病院の東側玄関の前は細い市道を挟んで児童公園になっているが、市道沿いに数本の桜の木が生育しておりちょっとした桜並木を作っている。梢の一部が道路を越えて病院の窓にまで達していて、中でも厨房の窓に接している枝は熱気で外気が暖まるのか例年その枝だけが数日早く花を咲かせる。ほかの部分はまだつぼみなのにそこだけこんもりと花が咲く状態は見ようによっては異様でもあるが、この町で一番早く咲く桜として当地域で発行されているローカル新聞でも紹介されたことがある。ところがたくさんの枝が昨年の秋に突然伐採されてしまった。市の公園整備事業の一環なのだろうが事前に知っていれば病院としては反対したのにと今になって悔やんでいる。
 毎年の楽しみがひとつなくなったと残念に思っていたところ、今年も病院の東側玄関に最も近い桜の木が早く花を咲かせた。SAKURA 嬉しかった。やはり玄関ドアの開閉によって暖房の影響を受けるのだろうか。同じような環境にある木はどこにでもあるかも知れないが、病院にとっては毎年のささやかな明るい風物として微笑ましい限りである。この桜並木は地域の方たちはもちろん病院の外来患者さんたちの間でも有名になっているが、何よりも入院患者さんたちの心の和みになっている。病室の窓に近接して桜が一面に咲き誇る様はたとえようのないほど美しい。
 いつの年かある高齢の患者さんが「桜はどこにでもあるがこの病室から見る桜が一番きれいだ。満開の桜が病身の自分の心を洗ってくれるようだ」と話していたのを思い出す。その患者さんは桜にまつわる自分の思い出を訥々と語ってくれたのだが、そのときの私はその心情のすべてを理解する感性を持ち合わせていなかったかも知れない。当時の私には樹木や草花に対する愛着心が欠けていた。すでに亡くなられたからもはやもう一度お話をうかがうことも出来ない。自分の未熟さ、情緒のなさ・・・今にして思えば悲しいことである。若いときは満開の桜を見ても気にもとめなかった。興味の対象がほかにたくさんあったのかも知れないが、桜など毎年咲くし桜イコール花見、花見イコール宴会でしかなかったのであろう。年齢を重ねるにつれて最近ようやく桜の美しさを愛でる気持ちが芽生えてきた。ただ桜の開花期間はあまりに短い。慈しむほどに散りゆく桜を惜しむ気持ちもまた強くなるのはやむを得ないことである。
 日本各地に桜の名所はたくさんあるが、今の私にとっては身近なこの児童公園の桜が最も心を和ませてくれる。ここに病院を開設してから今年で17年になる。来年はどういう状況でこの桜を観ているのだろうか。せちがらい世の中である。医療界も例外ではない。私や病院の今後の運命は誰にも予測できないことであるが、せめてあと十数年、いやせめて数年は安らかな気持ちで満開の桜を鑑賞することが出来るのであろうか。

世の中に絶えて桜のなかりせば
    春の心はのどけからまし (古今集/在原業平)
散ればこそいとど桜はめでたけれ
    うき世になにか久しかるべき
                   ーーーー「伊勢物語」より

 


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