囲碁・将棋について

奨励会制度への提言
全体を見る目


奨励会制度への提言

 将棋の名人戦が始まった。今年は丸山名人に谷川九段が挑戦する。かつて名人、王将、十段等多くのタイトルを独占したこともある谷川九段には一ファンとして是非がんばっていただきたいものである。
 次男が小学生の頃から将棋に興味を持った。田舎初段の私ではすぐに相手にならなくなり、能代市在住でかつて県大会や東北大会で優勝を重ねられた村上榮太郎氏(アマ五段)にも教えていただいた。秋田駅前将棋道場には毎週通ったし、東京の将棋会館や新宿将棋センターにもよく連れて行った。残念ながら高校になってからは他のことに興味を持ち、将棋はやめてしまった。親としては惜しい限りであったが、人生は長いし、また始めることもあるだろうと強制はしなかった。  当時各地の小学生大会や中学生大会で対戦した少年たちの中には、プロを志して現在奨励会でがんばっている青年が多数いる。奨励会というのは日本将棋連盟 独自の制度である。関東奨励会と関西奨励会がある。試験を受けて合格すれば6級(アマ四〜五段ぐらい)で入会する。成績が良ければ勝ち上がって昇級し、さらに初段、二段と昇段していく。三段になると東西あわせてのリーグ戦を半年単位で行い、上位二名が四段になる。晴れてプロになるわけである。今はかなり基準が緩やかになったが、かつては東と西の優勝者がさらに東西決戦を行い、年に二名しか四段になれなかった時代もある。満23歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日までに四段になれなければ退会しなければならないという年齢制限もある。だからプロになれずに諦めて退会していく人たちの方が圧倒的に多い。
 私が各地の大会で知った少年たちで四段になっているのは広島の山崎隆之さんだけである。この人は次男が小学生の全国大会の準決勝で戦った相手である。その子はその大会で優勝したが確かに強かった。ほかの00君や00君たち、何かの大会で次男と対戦したことのある青年たちはほとんどが現在奨励会の二、三段である。将棋雑誌や将棋新聞などで彼らの成績を見るたびに早く四段になって欲しいものだと願っている。
SHOGI  ひとつの提案として如何であろうか。将棋連盟も日本棋院 と同じく初段からプロとして認めて上げたら。奨励会は級位者だけにするのである。私も弱いアマなので初段と八段との実力の比較は出来ないが、その差は香落ちぐらいだろうか。角落ちまではいかないであろう。その中間だろうか。将棋連盟からの給料は高くなくてもいい。プロとしてあらゆる棋戦への参加資格を与えるのである。級位者にとっても大変励みになる。甘いと言われるかもしれないが、若い柔軟な頭脳のプロをどんどん養成して全国の小中学生たちの指導にあたってもらう。語学の研修をして広く海外への普及に力を入れるのもいいかもしれない。
 どんなスポーツでもプロのトップクラスに到達するには並大抵の努力ではないだろう。野球も相撲もゴルフもしかり。新聞紙面を賑わしているのはほんの一握りの人たちである。だから将棋界においても強くなって脚光を浴びたかったらそれ相当の努力をして勝ち上がっていきなさいというのも至極妥当な意見である。だから私の意見が将棋ファンとしての身びいきと思われても仕方がない。ただ将棋界は現在、特にアマにおいてその人口が減ってきている。寂しい限りである。将棋人口が全国で一千万人とはいえ、駒の動かし方を知っているだけで普段あまり指すこともない人たちも数えての話である。少子化社会で子どもたちの数も少なくなっている。昔は親兄弟や近所の大人たちに教えられたり、学校にこっそり駒を持っていって友達に教えられたりしながら自然にルールを覚えた。我々の年代で駒の動かし方すら知らないという人は男ではまずいない。今の子どもたちは違う。同じ室内遊戯でもパソコンやテレビゲームなど一人でする遊びに興味を持つ。
 奨励会制度の大幅な改革というのは大それたことだろうか。先人たちが築き上げた伝統を守らなければならないというのは理解できる。しかしながら同じく古来の伝統にこだわって斬新な改革を惜しみ、低迷の一途をたどっているのが相撲界である。将棋連盟は日本相撲協会の轍を踏んではならない。改革すべき点は思い切って改革すべきである。このままでは将棋は廃れていくのではないか。将棋は日本古来の頭のスポーツである。決してそうさせてはならない。
 囲碁に目を転じると、これは中国や韓国の方がプロもアマも人材が豊富で非常に盛んである。最近では層の厚さも実力も日本をはるかに凌駕しているぐらいである。広く全世界に発展中で欧州選手権や世界選手権などというのも開催されている。日本将棋連盟が日本相撲協会と体質的に似ているとすれば日本棋院は全日本柔道連盟に似ているのだろうか。将棋は悲しいかな、駒に書いてある字が漢字とはいえ日本語である。どうしても他の国の人々にはなじみにくいであろう。チェスと違って取った駒は使えるというルールが将棋というゲームを著しく難解複雑にしている。奥が深いのである。捕虜虐待につながるという外国からの意見もあるが、あくまでゲームとしてのルールであればそれがなぜ悪いかという見解も成り立つ。
 将棋という知的ゲームを永く後生に伝えて発展させていくためには、将棋人口を増やして層を厚くしていかなければならない。そのためにはもっと若手のプロをどんどん養成して広く普及にあたるべきであると私は考えている。


全体を見る目

   「木を見て森を見ず」という言葉がある。細かい部分だけを見て、全体を見ないと失敗につながる危険性があることを示した諺である。いつも大局を見なければならないということである。だが、これを実践してゆくことは実は非常に難しい。世の中は広くかつ複雑である。われわれには生活のあらゆる場面において常に総合的な判断力が求められている。外交において、政治や経済において、あらゆる分野での学問的研究、あらゆるスポーツや競技においてそうであるし、狭くは職場や家庭の中で遭遇する諸問題においてそうである。
 医療の分野においてもしかりである。例えば、胸痛の患者さんに対して胸部のみしか診察しなかったのでは医師として失格である。人体のどの部分を見ても、それはあくまで人体全体の一部である。全身の中で他のすべての部分との関連で考えなければならない。われわれはこのことをつい忘れがちである。私にも、胸が苦しいということで来院した患者さんに一生懸命胸部の診察や検査をしたが診断がつかず、結局は胃潰瘍であったというような苦い経験がある。胸部症状を広く身体全体の中で捉え、より詳細に検討すれば間違いを防げたのではないかと深く反省した症例である。
 かつて、某大学の某教授が退官記念講演の中で「私の教授在職中の誤診率は14%であった」と報告した。世間の人はその多きに驚き、医師たちはその少なきに驚いたという話は有名である。医師も人間である以上間違うことはあるし、われわれ平凡な医師においてはなおさらである。ただ、「木を見て森を見なかった」つまり大局的判断を怠った結果としての誤診は弁解できないが、「木を見て森も見て」到達した診断であれば結果的に誤っても許される余地はあるのではないかと私は思っている。
 将棋や囲碁というゲームはこの「全体を見る目」を養うのに大変適しているのではないかと考えることがある。将棋は9路×9路と囲碁より番面は狭いが、プロは中央の点(5ー五)のみを注視してなお全局面を見る訓練をすると聞く。将棋の場合は番面全体を面として見る力のほかに、番上にあるそれぞれの駒の働き、持ち駒の働きを最大限有効に働かせるためにはどの時点でどの手を指すべきかを考えなければならない。いわゆる大局観である。囲碁の場合は対局が進むに従って石が増え、番面の着点は少なくなってくるとはいうものの、やはり19路×19路の碁盤は広い。どうしても相手の着点に気を取られて、その周辺しか見ないということになりがちである。強い人ほどいつも全体を見ている。番面全体での個々の石の働きや強弱、形成判断を常に怠らないのである。
 わたしは将棋も囲碁も好きである。将棋は将軍になって将兵を動かし、敵将を倒す気分が味わえる。囲碁は戦術を巡らして敵中深く潜入し、敵陣を粉砕する気分が味わえる。戦争が好きなわけではないが、ゲームとしての勝ち負けは好きである。だから将棋や囲碁を通じてこのいわゆる大局観、「全体を見る目」を養い、広く世の中を見ていきたい、あるいは普段の仕事に役立てていきたいという思いは強いが、何しろ人間社会は複雑怪奇である。日常遭遇する色々な局面において、やはり何をしていいのか分からなくなり、茫然としてしまう毎日である。
 私の将棋と囲碁の実力はどちらも田舎初段かせいぜい二段程度でしかない。だから精進してもっと強くならなければまだまだ何も見えてはこないのだろうか。


   
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