スポーツについて


傍目八目
プレッシャー


傍目八目

 下手の横好きであるが、毎年春から秋にかけては時々ゴルフの練習場に行っている。運動不足の解消にもなるし、懇意にしている常連の方々に自分のスイングを見て貰えるという利点もある。ところが、たまたま隣り合っただけの見ず知らずの人なのに色々口を出してきて教えてくれる人たちが時々いる。足をもっと開いた方がいいとか、クラブを上げるときの腕の位置がどうとか。”親切”この上ないが、「うるさい」とも言えない。知らない町に出張して暇つぶしに練習場へ行った時は、「あ、プロの方ですか」と言うことにしている。それで大抵は何も言わなくなる。プロあるいはプロを目指している人が我々風情に教えてくれるわけがない。我々がどういう打ち方をしていようが全く関心がないし、どうでもいいことなのである。自分が住んでいる町の場合はどんな人でもいずれ知っている人になる可能性があるからなかなかそうも言えない。そうですかと教えられるままに打ってみるのだが、大抵はその後ショットが滅茶苦茶になる。ゴルフショットの本来の目的というのはクラブを振り、ボールを叩いて狙った方向へ飛ばしてやるということであろうが、そのことすら忘れてしまう。右に上げて左に振るだけなのにどうしていいか分からなくなるのである。私は左利きである。大抵の人は右利きであるから身体の各部分の力の入れ具合も違う。人は皆体つきが違うように打ち方も違うのである。教えたがり屋さんに申し上げたい。人がそれぞれどういう目的で球を打っているか分からないではないか。練習場なのである。色々な打ち方を練習する場所なのである。どうすれば左に飛んでしまうのかを再現してみることもある。それを見てまっすぐ打つ方法を助言してくれても笑止千万である。いちいち言われる筋合いはない。
 傍目八目(岡目八目)という言葉がある。囲碁をそばで見ている人は、対局者より八目も先が読めるという意から出た語であり、いい意味で用いられることが多いが、何事も自分でやると分からないことでも、傍から見ると分かりやすいのである。だが囲碁でも将棋でも横から余計な口を出す人は例外なくそれほど強い人ではない。強い人ほど礼儀もわきまえている。ゴルフもしかり、教えたがり屋さんにシングルプレイヤーはまずいない。親切とお節介は似て非なるものである。
 そのようないわゆる下手の助言が趣味としてのゴルフにとどまっているうちはいいが、仕事など人が生きていく上での本質に関わる領域でとなると話は別である。笑っては済まされない事態を引き起こしかねない。そういう領域においてさえ相手が知らないことを前提にものを言う人が世の中には少なからずいるのである。もはや傍目八目どころかお節介のレベルをすら越えている。自然、言い方に教えて上げる的な要素が入る。もしご存じでしたら申し訳ありませんがというような前置きがあるわけでもない。私には不思議である。だから、一体あなたは何を根拠に私がそれについて知らないと思うのかと問い詰めたくなる。あなたは私のこれまでの全人生を知っていてそういう言い方をするのか、私がそのことについて多少なりとも知識を持っているかも知れないとは考えないのか、結局自分の知識のひけらかしではないか、そういうふうに言い返したくなる。
 大学を卒業して2、3年の若い研修医に、「これは難しい手術です。この施設ではそのような手術はやるべきではないと思います」などど暗に私の技術を問題にしながら正面切って言われたら私も立場がない。色を失うとはこのことである。病気の本態や手術適応に関する討論ならいくらでもするが、これではとりつく島がない。その手術には私なりの自信があるからやるのである。最近そのような症例に遭遇していなかったからしなかっただけで、かつてあなたの知らない時期に何度も行って技術的にも習熟しているつもりである。だから手術をするのである。確かに私のところは私的小病院であって公的大病院のように最新の高額な機器がすべて揃っているわけではない。しかしながら日常の患者さんの治療にあたっては、病院として出来る範囲で、自分の知識や技術の及ぶ範囲で私なりに全力を尽くしているつもりである。
 そんなことで腹を立てる私はまだまだ人間としての、医師としての修行が足りないのであろうか。


プレッシャー

 あるゴルフ週刊誌を昨年と一昨年の二年間で目次と記事を比較してみた。連載ものはともかく、特集記事は毎年テーマが似通っている。タイトルが違うだけである。例えば「どうやったら飛ばせるか」という特集がある。昨年はクラブを短く持てと書いている。一昨年は長く持てと書いてある。また例えば「アイアンの打ち方」という特集がある。ある年は払い打て、ある年は打ち込めと解説している。その年によって全く逆なのである。どっちを信じればいいのだろうか。その人その人で自分に合った方法を選ぶならどちらも正しいのであろうが、我々凡人は迷うことこの上ない。悩ましい限りである。ショットの本来の目的はボールを狙った地点に運んでやるということである。だからある程度の基本さえ身に付ければ、あとは人それぞれが自分なりの最善の方法を見つけなければならないわけである。たくさんある週刊誌や月刊誌、単行本の類はそのためのアドバイスになり得るのかも知れないが、私のように本を読むたびに迷ったり打ち方を変えたりしていたら何年たってもレベルの向上はないであろう。これでは水泳の本を一生懸命読んで逆に溺れてしまう人と同じである。
 今は各メーカーがしのぎを削っていいクラブを作っている。筋肉や関節の自然な動きに逆らわずに普通に打てばおよそ真っ直ぐ飛ぶようにクラブは出来ているはずである。あとは普段の練習で精度を高めていくしかない。シングルプレイヤーの中にもゴルフの本は一切読まないと言う人がたくさんいる。考えてみれば金槌で釘を叩く時の手首の使い方を論じた書物は見あたらない。重いものを放り投げるときに手や腰などをどうやって動かせばいいかを論じた書物も見あたらない。人間の身体の動きに無意識に従うだけだから誰にでも出来るのである。
 何らかの目的があってゴルフのショットをわざと難しいものにしている仕掛人がいるとしか思えないと言えば、下手のひがみでしかないのであろうか。競技としてのゴルフもスポーツである以上スコアが問題になる。ただ私はいわゆるシングルプレーヤーを目指しているわけではないから、現在のハンディに恥じない程度に80半ば前後で回れればいいと思っている。だからクラブを素直に右に上げて素直に左に振る、これでいいと思う。それが出来れば苦労はしないという声が上がるであろう。なるほど実はそのとおりなのである。素直に振ればと書いたがこれがなかなか出来ない。いつも平坦ないいライから打てるわけではないし、木や池などの障害物が気になったり、これがグリーンに乗ってツーパットなら念願のスコアを達成できるなど常に緊張感や重圧感が付きまとう。
 プレッシャーというやつである。あらゆる競技に付きものの厄介な代物であるが、プロからアマまでレベルこそ違え、これがあるからゴルフは難しい。私のゴルフなど単なる遊びでしかないが、それでもこれさえなければそこそこのショットになりスコアも良くなる。だから最近はこのプレッシャーという魔物を少しでも取り除くために自分はどうすればいいかということに主眼を置くようになった。少々のことには動じない強い精神力を作るためにはどうすればいいのだろうか。ショットやパットの練習をいくらやってもそれだけでは得られないような気がする。囲碁将棋においても緊張したときにこそその人の本当の実力が出ると言われている。プロ棋士は対局の際に常に平常心を保てるように普段から盤の前で瞑想するという。だから私も練習場通いはほどほどにして近所のお寺に行って座禅を組もうか、あるいは原木を買ってきて念仏を唱えながら仏像でも彫ろうかなどと阿呆なことを考えている。


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