秋田湊城 安東氏 13

安東氏の秋田入りの第一の地は男鹿半島であった。男鹿半島は津軽に隣接しており

海上交通の要衡の地であった。

延元三年(1338)5月22日、和泉国石津の合戦で北畠顕家に殉じた安東貞季には5人の子がいる。

長男に十三湊福島城主・安東盛季、次男が安東鹿季、別称・西関(にしのせき)ニ郎がいた。



西関は今の青森県西津軽郡深浦町である。西関城は七里浜海岸にあり安東氏にとっては

十三湊福島城の有力支城であり要衡の地であった。

応永二年(1395)、西関ニ郎・安東鹿季(かのすえ)は秋田侵攻の命令を十三湊福島城主・安東盛季より

受け二百余騎を率い進発した。

蒼海(日本海)を南下した安東盛季は男鹿半島に相川の染川城、脇本城の拠点基地を築き

更に海岸沿いに秋田湊(土崎湊)の秋田城へ進撃した。

湊城主秋田城介顕任(公家の出身または北畠顕家の弟顕信の肉親関係者かといわれている)を

滅ぼし湊城主となった。

この鹿季が湊安東氏の祖である。

鹿季の嗣子は成季(しげすえ)・孫三代目惟季(これすえ)と続き湊城を拡張し堅固にした。